第2話 1日目 ビールとミートボールとパイと、またビール


 ロンドン市内に向かう前にまず必要になるのは現金だけれど、日本を発つ前に銀行に行く時間がなかったので、現地通貨は1ペンスも持っていなかった。僕はATMを見つけると、とりあえず新生銀行の自分の口座から50ポンド(7500円程度)引き出そうとした。
 しかし、いくら試しても引き落とせない。処理を中断しました、というメッセージが出るだけで、パスワードが違っているのか、日本の銀行のカードが使えないのか、回線トラブルか、原因がまったくわからない。ツマも試してみたけれど、やっぱり現金を引き出すことができなかった。僕はすっかりうろたえてしまって、この先ずっとATMが使えないと困ると思い、両替屋で手持ちの現金を両替することにした。
 両替屋のカウンターで30000円を出すと、なにやら係員がものすごい早口で何か言ってくる。正直、何を言っているか聞き取れない。ははあ…、と僕は思った。先ほどの入国審査と言い、どうもこの国の人々は相手が外国からの旅行者だろうとなんだろうと容赦せず、決してゆっくり話そうとはしてくれないらしい。なんという悪逆非道。紳士淑女の国と思っていたら大間違いだ。僕は憤慨し、係員に向かって「よしそっちがその気ならしかたない。覚えていろ、もしお前が日本に来て道に迷っているときにたまたま僕がお前を見つけたとしても決して道を教えたりはしてやらないからな。いや、あえて逆の道を教えてやる。どうだ参ったか」とまくしたてたが、係員はさすがに恐れおののいたのか52000円分を両替するなら手数料はいらないよ、と言ってきた。残念ながらそんなに現金を持っていない。結局30000円で171.53ポンドを手に入れた。後で冷静に考えたらそれは酷いレートだったけれど、頼りにしていたキャッシュカードが使えなくて僕は焦ってしまっていたのだった。

 ヒースロー空港からロンドン市内へ向かうには、いくつかの方法がある。代表的なものは、パディントン駅までの直行特急列車、ヒースローエクスプレス。これは15分程度で着くので早いけれど20ポンド(3000円程度)もする。安いのは地下鉄で、40分くらいかかるけれど5ポンド(750円)で済む。
 時は金なり、という言葉もあるが、僕らはやっぱりロンドンと言えば地下鉄だよね、とそちらを選んだ。空港に直結している地下鉄の駅まで歩くと、駅の入り口付近にATMがあった。僕はここでもカードが使えないのだろうか、と10ポンドだけ引き出してみることにした。ツマは「手数料がもったいない」とケチくさいことを言ったが、これは実験だ。実験にはなにかしらの代償が必要なのだ。それがロマンというものなのだ。
 やってみると、あっさりと何の問題もなく10ポンドが手に入った。「さっきのは両替屋の隣の機械だったから、使えないようにしてたんじゃ…」とツマは言った。そんなことはない、とは言い切れない。なにせイギリス国民と言ったら誰も彼も人を信じず思いやると言うことを知らない悪魔のような者ども(サンプルは両替屋の係員1名)だからだ。僕は、たった今ATMから出てきたとは信じられないようなくしゃくしゃのきったない紙幣を財布にねじ込んだ。よく日本の機械は出来がいいとか精巧だとか言われるけれど、こんなくしゃくしゃの紙幣が問題なく扱えるというあたり、欧米の機械のほうがすごいよなあと思う。
 地下鉄に乗るには、もちろん切符を買うのでもいいけれど、これから市内を動き回ることを考えるとICカードを買った方がいい。日本のスイカやパスモと同じチャージ式の非接触ICカードで、オイスターカードという。ただしこのオイスターカードはスイカよりもよくできていて、1日にどれだけ乗っても1日乗車券と同じ金額以上は引かれないことになっている。つまり、1日乗車券を買おうか、オイスターカードにしようか…と迷い悩む必要がない。さすが地下鉄先進国イギリスだと感心した。ちょうど今年はロンドンの地下鉄開業150周年ということで、オイスターカードも「150」と大きくデザインされた限定版だった。いい旅の記念になる。
 ちなみにこのオイスターカード、オイスターと言ったら牡蠣だけどまさか牡蠣カードじゃないよね…と調べてみたら牡蠣じゃなくアコヤガイ(真珠貝)のことらしい。貝殻と貝の身と真珠を、それぞれカードとICチップと残高データに例えているのだろうか。よくわからないが、なんとなくそういうことにしよう。そうしよう。

 チューブという愛称で呼ばれている地下鉄は、その言葉のイメージ通り、丸い筒のような形のトンネルでできている。電車もそれに合わせて屋根が丸くなっていて、オモチャのようだった。乗ってみると、その外観の古くささとは違って車内は明るく清潔だった。電光掲示板もついていて、次がどの駅なのかわかる。快適そうな車内ではあるけれど、狭い。非常に狭い。150年前の技術で150年前の文化にあわせて掘られた地下鉄だから、今の価値観と合わないのはしかたないとしても、本当に狭かった。席は空いていたけれど、大きなスーツケースを引きずって席と席の間を通るのは困難に思えた。それでも、ツマの「市内まで40分もかかるのだからどうしても座りたい座りたい」というなるほどごもっともな意見に押されて、はいちょっとすいません通りますよ…と僕らはなんとか空いている席に辿り着いた。
 僕らの乗ったのは、空港から市内へと続いているピカデリー線。泊まる予定のイビス・アールズコートは、ホテル名はアールズコートだけれど最寄りの駅はアールズコート駅ではなく、その隣のウェストブロンプトン駅だ。ピカデリー線のアールズコート駅でディストリクト線に乗り換え、ウェストブロンプトン駅に向かう。
 40分ほどで、アールズコート駅に着いた。ここで乗り換えるわけだけれど、どこに行けばいいのかよくわからない。僕らは路線図と駅の案内を見ながら、なんとかディストリクト線のホームに辿り着いた。アールズコート駅は、ディストリクト線が東西南北に延びているターミナル的な駅で、1つのホームに各方面行きの電車が入ってくるらしい。うむこれはよほど気をつけないと乗る電車を間違ってしまうな…と眉をひそめていたら、ホームにガタゴトと電車が入ってきた。ツマが「これだこれだこれに乗ればいい」というので乗ったところ案の定行き先が違っていて、次の駅で引き返さなければならないことがわかった。
 1つ隣のウェストケンジントン駅で降りると、引き返すには階段を登り降りして反対側のホームに行かなければならない。僕は僕とツマのスーツケースを両方の手に1つずつぶら下げて階段を登り、降りた。紳士淑女の国なのでこうしなければならないのである。たとえツマが間違ったせいで反対側のホームに行かなければならなくなったとしても、だ。
 アールズコート駅まで戻り、こんどはエレベーターを使ってホームに降りる。イギリスではエレベーターのことをリフトと言うようで、なるほどエレベーターとエスカレーターを混同しないようにという配慮だなと一瞬思ったがたぶん違う。このリフト、見た目はそこそこきれいだけれど、乗ってみるとガタンゴトンガガガガガドンガガンとたいへんやかましく揺れる。僕は大変後悔した。異国の地に於いてなんだか粗悪なリフトに乗り込み悲惨な最期を遂げるかもしれない。僕とツマは自身の運命を悲しく思い、がっしと抱き合って来世でもぜひ一緒になろうじゃないかとおいおい泣きながらホームに着いた。
 ちょうど帰宅ラッシュの時間帯なのだろうか、ホームでは大勢の人が電車を待っている。僕は今度は乗り間違えないようにと路線図を見た。ウィンブルドン行きの電車に乗ればいいらしいが、次に来る電車がどこ行きなのかわからない。困っていると、いきなり駅のホームで電車を待っていた人々が大移動を始めてホームの反対側に行った。同時に、ツマが次の電車の行き先を表す表示板を見つけた。それはホームごとに掲げられていて、駅名が6〜7個ほど書いてある。電車が来ると、そのホームの表示板の駅名の横に行き先を示す矢印が光って表示される仕組みだ。なるほど、現地の人もこの表示が出るまではどちらのホームに目的の電車が入ってくるかわからないのだ。わからないけれど、とりあえずどっちかに並んでおいて、次の電車の行き先が発表されるやいなやどどどどど…と大移動するのだ。もっと早く次の電車の表示をしておけばいいと思うのだけれど、地下鉄150年の歴史を持つイギリス様に僕らが口を出すことはできないので黙って電車に乗った。
 程なくウェストブロンプトン駅に着いた。時刻は17時半。ヒースロー空港に降り立ってからすでに2時間経っている。まだ充分遊ぶ時間はあるし、ご飯も食べなければならない。僕らはレンガ造りのたいへん趣のある駅を後にし、ホテル・イビス・アールズコートへと向かった。

 ホテルまでは、駅から歩いて5分ほどだった。ロビーはこぢんまりとしていて、大げさでない程度の充分な広さがある。ちょうど鳥取あたりのビジネスホテルがこんな感じだったな、と僕は妙な感想を持った。
 チェックインの時、朝食はどうするかと聞かれた。そうだ、これは重要だ。イギリスの朝食と言えば、フル・イングリッシュ・ブレックファーストという、伝統的なメニューの朝食がある。僕らは今までの経験から、ホテルの朝食よりもホテル近くのカフェ等で食べる朝食のほうがだんぜん旨いと言うことを知っていたけれど、1泊目の朝くらいは高くてもそのぶん何の心配もいらないホテルの朝食でもいいな、と迷っていた。フロントの女性はそんな僕らの様子を見て、「今支払ってもいいし、明日の朝レストランで支払ってもいいわよ」というのでじゃあ明日払うことにした。
 僕らの部屋は11階建ての10階、眺めも良さそうだ。このホテルをはじめ、ロンドンのホテルは全室禁煙なので匂いに悩まされることもない。部屋は少し狭く感じるけれど値段相応に思える。ちょうど鳥取あたりのビジネスホテルの部屋がこんな感じだったな、と僕はまた同じ感想を持った。窓からは、ロンドンの夜景…というにはちょっと寂しいけれど、下町風の景色が広がっている。ちょうど鳥取の駅に近いビジネスホテルからの眺めがこんな感じだったな、と僕はなんだか鳥取のことばかり考えている。空は少し暗く紺色で、地平線近くだけが僅かに残った夕日のかけらに照らされていて、とてもきれいだった。

 部屋の設備を一通りチェックし、残念ながらビールを冷やすための冷蔵庫もないことを確認すると、僕らは外に出た。ロンドン・アイという観覧車で夜景を見たらいいのではないか、と思っていた。ウェストブロンプトン駅を出たのが18時半。アールズコート駅で東行きのディストリクト線に乗り換え、20分ほどでロンドン・アイに近いウェストミンスター駅に着く。アールズコート駅やウェストブロンプトン駅は地下鉄と言っても半地下で、ホーム部分からは空が見える構造だった。しかし、ウェストミンスター駅は完全な地下駅。そうそう、地下鉄はこうじゃなくっちゃあ…と、僕らは階段を登って地上に出た。さてここはどのあたりかな…と振り返ると、そこにはビッグベンがそびえていた。くすんだアメのような色の精緻な装飾が施された塔を見上げると、大きな時計がある。僕は、おおおおおおおおお、と唸った。もう10年くらい前になるけれど、僕は長崎ハウステンボスのシンボルである時計塔、ドムトールンに一目惚れして以来、すべての町に時計塔を!という運動を全国的に展開しようと一時期本気で考えるほどの塔好きで、一度はビッグベンを見たいと思っていた。けれどそのわりには「まあロンドンに行けば嫌でも目に入るだろうからね、特にビッグベンを見に行きましょうという計画を立てなくてもね…」と油断していたところ、いきなり出会ってしまったのだった。僕は何度も唸りつつ、馬鹿みたいに口を半分開けてニヤニヤしつつビッグベンを見上げた。
 ウェストミンスター寺院はもう閉まっていて内部の見学はできないけれど外観だけでも見に行こう、とツマが言った。僕はそのときその寺院がどんなものかもよく知らなかったので、ハァそうですねとだけ言って地図を見た。信号待ちの途中でビッグベンが19時の鐘を鳴らした。僕はまた、おおおおおと唸りつつビッグベンのあまりの格好よさに震えた。いやあなんだか鐘の音がスピーカーから聞こえているような気もするけれどまさかそんなことはあるまい。
 ビッグベンからウェストミンスター寺院までは、歩いてすぐだ。ビッグベンに気を取られていたが、右を見ても左を見ても、荘厳壮麗、アメ色の美しい建物が並んでいる。すべての建物が重厚な歴史的建造物のようで、これはどうも、とんでもないところに来てしまった。
 ウェストミンスター寺院のそばまで来たけれど、どこが正面なのか、そもそもこれがその寺院なのかどうかもよくわからない。とりあえずこっち…と歩いて来て、うーんまあ立派な建造物だけれどこういったものはちょっと見回しただけでもいくつか見えるしね…と、それほどの感激もせずに僕らは引き返した。これが、ウェストミンスター寺院との最初の遭遇。

 やはり夜の観光となるとずいぶん場所は限られてくる。僕らは、観覧車ロンドン・アイに向かった。これは、ビッグベンからテムズ川を渡ってすぐのところにある。青く輝いていて、どんなに遠くからでもはっきりとわかる。光りかたはわりと強烈で、なんとなくロンドンの景観を乱しているように思えないこともないけれど、たぶんロンドンの人は、古いものと同じくらい新しいものが好きなのだろう。
 2人分のチケットを買い、さあいよいよ搭乗…と思ったら4D映画を見て行け、と呼び止められた。ロンドン・アイの搭乗券にはその映画も含まれているらしい。ロンドン・アイの営業時間の終わりが迫っていて、そんなもの見てる時間があるのかと思ったけれど、まあ料金に含まれているなら…と4D映画とやらを見ることにした。その映画というのはロンドン・アイを紹介するもので、たいして盛り上がることもなくすぐに終わってしまった。3D+スモークで4Dと言っちゃうのもなんだかなあ、と周りを見ると他の皆さんも同じような感想を持ったらしく、ええとまあねえ、終わったらしいのでそろそろ出ましょうか…と無言で上映ブースを後にした。
 この時期の平日、しかもこの時間となると、ロンドン・アイもまったく待たずに乗ることができる。ネット予約で優先的に乗れる少し高めのチケットも売っているようだけれど、僕らはとりあえず行ってみて混んでいるようだったら優先チケットを買って次の日に行けばいい、ということにしていたが、その必要はまったくなかった。
 ロンドン・アイは、ラグビーボールのような形のゴンドラが特徴の、高さ135メートルの観覧車だ。ゴンドラは大きく、20人ほど乗れる。中央のベンチに座れるようにはなっているけれど、せわしなく歩き回って刻々と変わる眺めを楽しむもののようだ。僕らが行ったときには割とすいていたので7人くらいしか乗らず好きなように歩き回れたけれど、もっと人が多かったらそういうわけにはいかないよなあ。
 ロンドンの夜景は、ギラギラピカピカした物ではなく、落ち着いた電球色で照らされていた。おそらくガス灯の時代からこんな色合いだったのではないかと思う。やたらと明るく真っ白な光をちりばめた夜景を100万ドルの夜景なんて言い方をするけれど、僕はああいったのはあまり好きじゃない。かといってぽつんぽつんと寂しげな明かりが点在するだけで「これを夜景と言われてもねえ…」とまあ住民の皆様には大変申し訳ないのだけれどガッカリしてしまうような夜景もよくない。ロンドンの、別に意識したわけじゃないけど必要な明かりを必要な分だけ必要に応じて置いてみたらこうなったよ…という夜景はまさに僕好みだった。今になって思うと、ある程度市内を歩き回ってどこに何があるか把握してからの方が楽しめたかもしれない。なにしろ、僕らはこのとき、まだほとんどロンドンの観光についての知識を持っていなかったのだ。だから僕らは、せいぜい、ああほらあそこにビッグベンがあるよ…といった程度の会話しかできなかった。
 30分というとわりと長いように思えるけれど、ロンドン・アイの1周30分はとても短く感じた。なんだったらベンチの下に隠れてもう一周…という考えがよぎったけれど、前を行くゴンドラから客が降りるなり係員がなだれ込み隅々まで清掃していたのを見て諦めた。

 ロンドン・アイに乗る前から気づいていたのだけれど、僕らはどうも腹が減っているようだった。けれどロンドン・アイの営業時間の関係で、食べるより先に乗っておかなければ、ということになったのだった。
 ビッグベンからウェストミンスター橋を渡ってきたときに、橋のたもとにパブがあったのを覚えていた。僕は日本でもあまり酒場のような所には行かず、酒場デビューがいきなり海外というのはいささか無謀なのではないか…と少し躊躇したけれど、他に店もないので意を決して入ることにした。
 パブの知識は、ガイドブックに書いてある程度のことしかない。注文はカウンターでする。まず飲み物を注文し、その後食べ物を注文する。現金はその場で支払い、ビールはその場で注がれたものを自分でテーブルに持って行く。食べ物はあとから持って来てもらえる。
 店によって多少違うらしいけれど、これが大まかな流れらしい。僕はまずビールを注文した。ツマは普段ビールを飲まないけれど、せっかくイギリスのパブに来たのだから…と2人でギネスを飲むことにした。バーカウンターからにゅっと生えた、何というのかわからないけれど蛇口からビールが際限なく出てくるという夢のような光景をうっとりと眺めていると、そうそう腹が減っていたのだと気づいた。そこで僕はフィッシュ&チップスを注文する。この頃の僕はまだ、イギリスというと食べ物がお粗末で、よく言えば素朴、お世辞込みで言えばまあまあ、正直に言うとイギリス人の皆さんが怒り出すかもしれないから黙っていようか…という認識だった。どうせまずいなら名物のフィッシュ&チップスを、と思ったのだ。ところが店の男はバーカウンターの向こうからビールを僕に手渡しながら実に申し訳なさそうに、いやもともとそういう眉毛の人だったのかもしれないけれど、食べ物はないよと言ってきたのだった。おいおい舌の肥えた日本人に食べられるようなものはないということか、そんなこと気にせずに、どんなにお粗末なものでも笑ったりしないからほら正直にお言い…と促したけれど、そうではないらしく、すでにフライヤーの火を落としてしまったという。そんな馬鹿な、とまわりを見回してみると、なるほど客はピーナツの1粒すらも食べず、ただビールの注がれたジョッキを手に静かに過ごしている。つまみも無しに酒を飲むとはなんたることか、と僕は憤ったけれどこの店はどうもそういうものらしいと諦め、テーブルに着くとギネスをぐいと煽った。旨い。この国に来て初めて口にする物がビールだというのはそれほど悪いことではないだろう。けれどやっぱり、ねえなんかツマミないのツマミ。
 ビールを飲み終えた僕らは、ビックベンに向かって橋を渡り、ウェストミンスター駅周辺に戻った。何気なく渡ったこの川はかの有名なテムズ川なんだけれど特に感慨もない。
 先ほどウェストミンスター寺院を見に行くときに、ああここにレストランがあるな、ということを覚えていた。僕は、あんなロンドン・アイの根元でコバンザメのようにおこぼれの客を目当てにしているような店ではいかん、やっぱりこう町中にちゃんと店を構えているところでないとね、と、その店に入っていった。ドアをくぐってすぐ、半地下のような形のパブになっている。ツマは、まず食べ物があるかどうか聞いた方がいいんじゃないか、と言った。なるほどそれもそうだ。僕はカウンターに行くと、食べ物があるか聞いてみた。すると店員は上の階で注文しろという。いやいやそこのテーブルが空いてるじゃないか、僕はこのパブの雰囲気の中でフィッシュ&チップスが食べたいのだとだだをこねたけれど、やっぱり上の階へ行けという。
 仕方なく階段を登ると、そこはこぢんまりとしたレストランだった。狭いものの、15〜6人くらいは入れるだろうか。小さなテーブルがいくつかある。僕らはそのうちの一つに案内された。
 メニューを見てみると、食べ物は豊富とは言えないけれど選択に困るほどでもない。とは言えじっくりと選びたいので、まずはビールを飲みながら決めよう、ということにした。さすがイギリス、ビールの数は多い。僕らはさんざん悩んだあげく、それぞれ自分の飲みたいビールを注文した。ところが、今日はビールが2種類しかないという。食べ物がなかったり飲み物がなかったり、なんだか中途半端なのだ。仕方なくその2種類のビールを注文し、どうせおいしくないのだからね…と適当にミートボールとポークパイも注文した。
 僕らには秘策があった。ANAの機内食に付いていた小さな塩と胡椒のパック。ツマがきっと役に立つからこれはとっておこうと提案した物だ。僕はなるほどケチくさいけれどこういうことには良く気づくツマだなあよしよし…と塩胡椒をポケットに忍ばせていた。きっと味も素っ気もない、ただ煮ました焼きましたというだけの料理、というか加熱した食物が無造作に皿の上に積まれ、運ばれてくるだろう。そこで僕らはサッと取り出した塩胡椒で調味し、この未完成な食物を料理と呼ぶに相応しい一品に仕立て上げるのだ…と息巻いた。もちろん各テーブルには塩胡椒くらい置いてあるのだけれど、ポケットからサッと出した方がなんだか必殺技っぽくていいのだ。
 やがて運ばれてきた食物は、予想に反して見た目はそこそこに料理っぽくないこともなかった。僕らはそれでも、見た目はそれなりだけれど、日々美しく盛りつけられ、しかもおいしい料理を食べている我々日本人にとってはきっと満足できる物ではないよね、とミートボールを口に放り込み、鼻をつまんでビールで流し込む心構えをした。
 そして記念すべきひと口目。イギリスに来てから初めて口にする固形物だ。
 旨い。
 なんだなんだ、ミートボールは臭みのない肉が上品なソースをまとい、実に旨いじゃないか。もう一つのポークパイも、サクサクしたパイとそれに包まれているしっとりした肉が実に旨い。付け合わせも他の欧米各国のようにテーブルの向こうの相手が見えないほど高く盛られたマッシュポテト、とかいうのではなく、メインの料理とのバランスがいい。僕らはなんだなんだどうしたイギリス、とビールを飲みながら旨い料理をいただいた。イギリスにも旨い料理を食べさせる店はあるのだな、と僕は少し感心した。けれど油断はできないのだ。
 空腹が落ち着いたところで店内を見ると、僕らの他には2人組の男女と、老若男女7〜8名のグループがいるだけだった。このグループは何の集まりなのかわからない。見たところ家族のようでもあるけれど、何か話すでもなく、みな黙々と食事をし、あるいはビールを飲んでいる。一番手前の若い男は退屈そうだ。わざわざ家族揃ってレストランなんかに来なくてもなあ、特にあらためて話すこともないし、家でテレビでも見ていたいなあ…という表情が見て取れる。たまに初老の男性が思いついたように、あっそういえば、と話し出すとほんの一瞬だけ盛り上がるのだけれど、30秒ほどで話は尽きてしまい、再び皆各自の皿もしくはジョッキに視線を落とすのだった。
 僕らはそんな彼らを横目で見つつ、もう一杯ずつビールをおかわりし、気分良く店を出てホテルに戻った。