第3話 2日目 正しくない朝食と正しいアフタヌーンティ


 ロンドン市内の観光は最初の日を含めて3日間、それとレンタカーでの遠出を挟んで最終日の半日程度だ。正直言って少し足りないかな、とは思ったが、かといって1週間ずっとロンドンにいてもつまらない。
 僕らはロンドンで初めての朝を迎えると、クゥと鳴る腹をなだめながらホテル内のレストランに向かった。人間というのは大したもので、時差があっても一晩寝るとちゃんとお腹がすいているのだ。
 レストランの入り口で部屋番号を告げると、フル・イングリッシュ・ブレックファストにするか、と聞かれた。それはイギリスの定番の朝食なので、食べないわけにはいかない。もちろん答えはイエスで、カウンターで料金を支払うと、さあそれでは好きなものを食べなさいとビュッフェに解き放たれた。ビュッフェといっても日本のホテルのように和食洋食があって好きなものを好きな組み合わせで…というものではなく、数々の料理が並んでいる皿から全部揃えるとフル・イングリッシュ・ブレックファストができあがる、というものだった。つまり、ベーコン、スクランブルエッグ、ソーセージ、焼きトマト、マッシュルーム、ベイクドビーンズだ。それにポテトやサラダを追加し、特においしかったソーセージをおかわりした。さらにトーストとカップケーキのようなスコーン、それとイングリッシュスマフィン。
 一通り皿に取ってみたけれど、これがフル・イングリッシュ・ブレックファストの正しき姿なのかどうか、今ひとつ自信がない。なにせまだ本物を見たことがないのだ。とりあえず味は少し物足りないけれど量だけは充分すぎるくらいになった。僕らはいつもそうなのだけれど、朝ご飯としては少し食べ過ぎたのだった。

 朝食を終えると、僕らは街に出ることにした。ちょうど出勤時間らしく、みんな少し早足で駅に向かっている。僕らはのんびりと町並みを楽しみながら、朝のロンドンを歩いた。
 宿泊しているイビス・アールズコートはブロンプトン墓地の近くにある。墓地の入り口にはゴミ集積所があり、リサイクリング・オンリーと書かれた大きなゴミ箱がいくつも並んでいる。なんということはないけれど、墓地とゴミ集積所の組み合わせは少しシュールな感じがした。交差点では足下にLOOK RIGHTと書いてある。親切だけれど、ほとんどすべての横断歩道にそう書いてあるのはお節介ではないだろうか。
 遠くから救急車のサイレンが聞こえる。と思うとそれはものすごい早さで近づいてきて、俺たちを待っている病人がいるのだ!人をはね飛ばそうが車に激突しようが構わぬ、急げ急げ!といった様子ですっ飛んでいった。日本の救急車はハイちょっと済みませんね病人さんが待ってらっしゃるのでね済みませんね…と遠慮がちに走るのでなかなかどかない一般車もいるのだけれど、イギリスの救急車は必死になって避けないと自分の身が危険なのでみんなどくのだ。これはこれで正しいような気がするがちょっと極端だなあ。
 僕らは充分な幅を持った歩道を歩きながら、半地下になったアパートをちらりちらりと覗き込む。どのアパートも、道路と同じ高さにドアがあることはなく、道路から階段を半フロア分降りると一番下の階、半フロア分上がるとその上の階となっている。一番下の階は、日差しもあまり期待できず、雨が多いロンドンではどうもじめじめしてしまって、具合が良くないのではと思う。そのぶん家賃が安いのかもしれないけれど、だからといって全てのアパートに半地下の部屋があるというのも不思議だ。日本に帰ってから少しこの半地下の謎を調べてみたのだけれど、イギリスではこれが普通だ、ということくらいしかわからなかった。
 ウェストブロンプトンを南下し、キングスロードを東へ。この先に、最近ある映画で少し有名になったベンチがあるはずだ。見落とさないように注意して進むと、ミルマンズ・ストリートとの交差点にそれがあった。休憩を兼ねて座ってみる。けれどちょっとだけ一休みした後、このあたりは特に観光するところもないのですぐに移動しようということになった。のんびり散歩しているようでいて、実はせわしないのだ。
 この通りは、ロンドン名物のタクシーやら二階建てバスやらがひっきりなしに走っている。どちらもその運転テクニックはすばらしく、さほど広くない道に駐められた車をクネクネと器用に避けながら走っている。車が詰まっていてこれはもうどうしようもないだろうと思われるところでさえ、ぬるりとすり抜けて走って行く。
 さすがさすがと喝采を送っていたが、バスは見る物ではなく乗る物だ。ロンドンはバスが名物であり、乗らないわけにはいかない。けれどさすが名物だけあってバスの路線はそれこそ網の目のように市内に張り巡らされている。一歩間違えればどこにどう連れて行かれるかわからないので、慎重に地図を見て最寄りの地下鉄の駅までバスに乗ることにした。
 バスはなんだか近代的でぴかぴかしていた。次の停留所を示す電光掲示板もあり、当然オイスターカードで乗り降りできる。車内には防犯カメラがあるが、カメラがあるから安全とみるか、危険だからカメラがあるのか、そこは個人の判断に任せたい。迂闊なことを言って責任を取りたくないのだ。
 バスはほどなくスローン・スクウェアについた。そこから地下鉄ディストリクト線に乗り換え、東のタワーヒル駅に向かう。
 ロンドンの地下鉄は、不慣れでも乗り換えるのがとても楽だ。目的の駅には何線で行くか、そしてそれは東西南北どちらの方にあるか、それだけがわかればいいという仕組みになっている。路線図さえ持っていれば、例えば今回はスローン・スクウェア駅から東の方にあるタワーヒル駅に向かうには、「DISTRICT LINE」「EAST BOUND」の案内に従って歩けば間違うことはない。
 東京の地下鉄だとこうはいかない。例えば、日本橋から銀座線で赤坂見附に行こうとしたら渋谷方面行きに乗るわけだけれど、これはつまり日本橋から見て赤坂見附は渋谷のほうにある、ということを知らなければならない。さらにその赤坂見附から丸ノ内線で大手町に行こうとしたら、まったくあさっての方向の池袋方面行きに乗らなければならない。僕は未だに東京の地下鉄を乗りこなせないのだけれど、ロンドンの地下鉄はほんの数時間で慣れてしまった。

 タワーヒル駅は、世界遺産となっている「ロンドン塔」という中世の城塞の近くにある。ロンドン塔とはいっても、塔の部分は1666年の大火で焼失してしまったのだそうだ。それでも、ここはさすが世界遺産だけあって、平日の昼間だというのに大勢の観光客がいた。
 チケットを2枚買うと、それぞれ絵柄が違っている。何種類あるのかわからないけれど、こういうのは気が利いていていいなと思う。
 城塞の中は博物館のようになっていて、大きな鎧だの小さな鎧だの、「偉大なアフリカの星」と呼ばれる世界最大級のダイヤだのが陳列されている。そのダイヤは、王笏にくっつけられていて王冠などと一緒に並べてあるそうで、その陳列棚のところだけは動く歩道になっていて立ち止まれない。
 僕らはとりあえずそのダイヤだけはしっかりと目に焼き付けようとしたのだけれど、なにしろ王笏というのがなんだかわからず、だからどれがそのダイヤなのかわからなかった。幸い動く歩道は陳列棚を挟んで反対方向にも動いていたので、僕らはスタート地点に戻り、もう一度じっくりと棚を見る。そこでやっとダイヤを見つけ、あったあったこれだこれだとはしゃいだ。もうダイヤの大きさはどうでもよくて、探していた物が見つかった喜びしか感じなかった。
 博物館を出ると、庭では中世の格好をした人が数名いて、寸劇のような物を演じていた。たいしておもしろくないので素通りする。
 ロンドン塔を出ると、すぐ近くのタワーブリッジに向かう。ここは跳ね橋なのだけれど、端の両側のたもとに橋を上げるための機構を納めた高さ40mの塔が立っており、2本の塔は上の方に通路が渡されていてそこが展望台のようになっている。ここからロンドンとテムズ川を見下ろすのが定番の観光スポットだ。これはよくロンドン橋と混同されるそうだが、そうか違ったのか。そうか。
 エレベーターで塔を上り、通路を渡ってテムズ川の反対側へ降りて最寄りの駅まで歩く。途中、断頭台があり、どんな罪を犯したのか知らないが青年が処刑されていた。そのままロンドンブリッジ駅を通り過ぎるとバラ・マーケットといういろいろ食べ歩きができる市場があり、そこでカップケーキなどを食べたかったのだけれど、その日はあいにく休みだった。仕方ないのでもうちょっとだけ歩いてハーパーズカフェの看板だけ見て駅に引き返した。コーヒーくらい飲んでもよかったな、と今になって思う。
 ロンドンブリッジ駅からウェストミンスター駅へ。ゆうべも来た、ビッグベンの近くの駅だ。今日は夕方にブラウンズホテルのアフタヌーンティーを予約しているから、ウェストミンスター寺院を見学してから行けばちょうどいい、ということになったのだった。
 ところが、その日の入場時刻は15時半まで。僕らが入り口に着いたのはちょうど15時半で、目の前で門が閉まってしまった。行き当たりばったりで行動するからこうなるのだけれど、あらかじめ各種情報を入手し綿密に立てられてた計画に則って分刻みの行動をとるなどというのは僕らには不可能なので仕方ない。僕らは途方に暮れた。
 途方に暮れて時間ができたので少し振り返るけれど、先ほど断頭台で処刑されていたというのは大道芸人がそういうパフォーマンスをしていたよという話なので、ロンドンは町なかで斬首刑が行われているような残虐粗暴なところだなどという誤解は持たないでいただきたい。
 寺院に入りそびれた僕らは、仕方なく駅へと戻り、さてどうしようとガイドブックを広げる。今からブラウンズホテルに向かっては予約の時間よりもだいぶ早く着いてしまうので、途中、でっかいライオンの像があるトラファルガー広場に立ち寄ることにした。
 エンバンクメント駅から古い町並みを眺めながら歩く。広い歩道は並木になっていて、今は冬だから寂しいけれど、葉が茂る季節には灰色の建物と緑の葉、青い空がどんなにきれいだろうと思う。町並みは古いけれど、電動アシストのレンタル自転車がずらりと並んでいたりして、やっぱり今は21世紀なんだなと当たり前のことをつぶやいたりする。
 トラファルガー広場は、歴史をひもとけば面白いのだけれど、とりあえずでっかいライオンの像が目立つな、というくらいなのでわざわざ来なくてもよかったかもしれない。
 レスタースクウェア駅まで歩き、また地下鉄に乗る。ロンドンの地下鉄は本当に便利だ。グリーンパークで降りると、このあたりはリッツホテルやフォートナム・メイソンといった古くて格式のあるホテルや店が並んでいる。予約の時間が迫っていたので、少し早足でブラウンズホテルを探すけれど、なかなか見つけられなかった。GPSに頼ってみるけれど、どうもこのあたりにあるはず、ということしかわからない。
 たまたま通りがかった人に聞いてみることにした。
 「すいません、ブラウンズホテルを探してるんですが」
 「グランドホテル?」
 「グランドじゃねえよブラウンズだよ」
 「グランドホテルというのは聞いたことないなあ」
 「BR、ブラウンズ」
 「あー、ブラウンズホテルね」
 そんなに僕の発音が悪いとは思わないんだけどどうなんだろう。
 「それなら、そこだ。あの帽子被ってる人が立ってるとこ」
 どうやら50mほど行きすぎてしまったらしい。お礼を言って戻ってみると、確かにブラウンズホテルと書いてある。やれやれ、と僕らはドアをくぐった。その瞬間、僕らはあっという間にコートを脱がされ、席に案内された。日本を発つ前にネットで予約してあったが、名前の確認も何もなしだ。予約の時間ピッタリに日本人2人が来たのだから、わざわざ名前を聞くような無粋なことはしないのだろうか。

 僕らに用意された席は暖炉の真ん前。ああ外は寒かったからありがたいねえ、と思ったのはほんの一瞬で、すぐそばで本物の火が燃えているものだから暑い暑い。たまらずウェイターを呼び止めて他に席はないのかと聞いてみたら暖炉の火を消してくれた。直訳すると「いいでしょう、あなた方のために火を消してあげます」となんだか恩着せがましいことを言われたのだけれど、たぶんそんなつもりではないのだろうと思う。
 程なく、例の3段重ねのトレイが運ばれてきた。ガイドブックでは「ステキ!憬れの3段トレイ!」みたいなことが書いてあるのだけれど、アフタヌーンティーというのはつまりは飲み放題食い放題なのだ。そんなにステキかねえ。
 今ではいろいろな形のアフタヌーンティーがあるそうだけれど、ここは伝統的なタイプ、つまり一番下の段はサンドウィッチ、真ん中がスコーン、一番上はケーキとなっている。ただしスコーンは載っていなくて、「焼けたら持ってくるよ」とのことだった。マナー的には下の段から食べていくらしいのでまあいいんだけれど、やっぱりせっかくだから最初から全部揃っている方が見栄えがいいなあ。
 紅茶はポットに入れられて供される。もう一つ、一回り小さいポットもテーブルに置かれ、なんだろうと思ったらお湯だと言う。僕らは少なからず衝撃を受けた。紅茶のポットの中には茶葉が入れっぱなしになっていて、当然だんだん濃くなる。そうしたらお湯で薄めるのだそうだ。
 イギリスは紅茶にこだわっているので、空気を十分に含んだ新鮮なお湯を沸騰させ、でも沸騰させすぎると空気が抜けてしまうのでほどほどのところで火を止め、茶葉は事前に十分蒸らして広げておき、ポットの湯の対流によってジャンピングさせて十分に香りを引き出すのだよ、という講義を受ける羽目になるかもしれないなと思っていたが、葉っぱは入れっぱなしにしとくから濃くなったら薄めろ、というのがイギリス流なのだ。ちょっとガッカリなのだ。さらにミルクをたっぷり入れるのもイギリス流だ。もう茶葉なんて安いティーバッグでいいじゃん、という印象さえ持ってしまう。そういや紅茶のポットの中は見なかったけれどひょっとしたら本当にティーバッグだったかもしれない。
 とはいえ、やはり旨いものは旨い。僕は普段あまり紅茶を飲まないけれど、香りの良さはさすがだ。サンドウィッチは普通の味だったけれど、クロテッドクリームをウンザリするほどたっぷりとつけたスコーンはしっとりとしていて香ばしく、何個でも食べられてしまう。なくなったらまた持って来てもらえばいいので遠慮せずにひょいぱくひょいぱくと食べてしまった。
 結局、僕らは2時間近くかけてのんびりとアフタヌーンティーを楽しみ、もう19時になってしまった。本来は、1日2食だった時代にそれじゃあお腹がすくからと始まったものだからもっと早い時間に食べるものだけれど、僕らははじめからこれを晩ご飯にするつもりだったのでちょうどいい。外に出ると、冬のロンドンはすっかり暗くなっていた。

 ステキ!憬れの3段トレイ!をガツガツとたらふく食った後、僕らはまだホテルに戻るのは早いからと夜景を楽しめる場所に行くことにした。ツマが言うには、昼間見たロンドン塔がライトアップされているとのことだ。どこでどうやってそんな情報を手に入れたのかは知らないけれど、そこに行ってみる。
 グリーンパーク駅から再びタワーヒル駅へ。ロンドン塔は白く照らされていて、まあせっかく来たのだからきれいだねえと思い込もうとすればそれもできなくはない、つまりは何かしらの都合により来訪が夜になってしまっても真っ暗で何にも見えなくてちょっとガッカリ…ということが防げる程度のライトアップだな、と感じた。タワーブリッジは少し派手に照らされていて、周囲の観光客も嬉しそうに写真を撮っている。僕らも同じようにややはしゃぎ気味にカメラのシャッターを切ったけれども、いかんせんセンスがないもので同じような写真が何枚も撮れてしまった。
 さてもう見るもの見たしホテルに戻ろうか、と言うと、ツマはキングスクロス駅に行きたいという。路線図を見ると、ホテルのあるウェストブロンプトン駅とは全然違う方向だったので、おいおいいったいどうしたことだキングスクロスに何があるのだとツマを問い詰めると、9と3/4番線のホームからショッピングカートで壁を通り抜けるのだ、と訳のわからないことを言い出した。ははあ、これは時差および旅の疲れにより一時的に錯乱しているのだろう、と僕は少しツマを気の毒に思った。ここは逆らわずにおとなしくツマについて行き、そのようなホームはなく、壁を通り抜けるのは不可能であることを理解し、正気に戻ってもらうのが正解だ。やれやれ、とため息をついてサークル線に乗り込んだ。

 程なくキングスクロス駅に着き、僕はありもしないふざけた数字のホームを探すふりをする。まるで探す気がないことをツマに悟られると面倒なことになるので、迫真の演技でどこにあるんだろうねえあっちだろうかこっちだろうかと辺りを見回す。このキングスクロス駅は近代的な大きな駅で、網目状の天井がとてもきれいだ。構内はやたらと明るくするのではなく、少し暗くしておき柱や天井をライトアップすることで上品かつ華やかに演出されている。これはなかなかきれいじゃないか、これだけでも来たかいがあったというものだ…ともう一度構内を見回すと、奥の方になにやら光るものがある。ややこれは果たして!と駆け寄ると、ショッピングカートだった。それはまさにレンガの壁にめり込み通り抜けようとしているところだった。僕は目を疑い、まさかこのような現象を目の当たりにするとは想像すらしていなかったので腰を抜かした。というのは嘘で、実際はカートが前後真っ二つに切断され、その後方、つまり持ち手のある側のみが、レンガの壁にもたれかけてあるように見える。おそらくある映画のファンの方々にはこれが今まさに壁を突き抜けようとしているように見えるのだなあ、と僕はわかったふうに何度か頷いた。
 僕はツマが錯乱していたのではなかったと安心し、ショッピングカートの残骸の写真を撮ろうとすると、子供が駆け寄ってきてカートにとりついた。ここでカートを押し、壁を突き抜ける物語の主人公になりきって記念写真を、というのが一般的らしく、その子供の両親および祖母と思われる老婆が幸せそうに笑い、カメラを向けていた。子供が去った後、ツマもそれに倣ってカートに手を掛け、何枚かの写真に収まったのだった。
 夕方に食べたステキ!憬れの3段トレイ!のおかげでまだお腹はすいていなかったが、一晩持つことはないだろう。この日は、パディントン駅で乗り換えるついでに駅構内のスーパーに立ち寄り、酒とつまみを買ってホテルに戻ったのだった。