第5話 3日めA 中華系魚和薯とブリティッシュロースト


 出発前、僕らはイギリスに行ったことのない大多数の人々とおそらく同じように、つまりはこんなふうに考えていた。
 イギリスというのは、とにかく食べ物がまずい。だがしかし、唯一の希望はフィッシュ&チップスである。これだけは実に旨く、揚げたての魚と揚げたてのイモをハフハフとほおばり、ごく軽度の熱傷を負ったノドにビールを流し込んだときに、ああ我々は今ここに生きているのだと実感できるに違いない、と。
 ところが、ロンドンに到着したその日の晩ご飯で、それが誤りだったかもしれないと知らされた。イギリスにも旨いものは存在するのだ。
 だからフィッシュ&チップスにこだわる必要はもうないのだけれど、やっぱり一度は食べたいよね…と、僕らは大英博物館に向かう途中、その近くにあるというフィッシュ&チップス界ではちょっと知られた、THE FRYES'S DELIGHTという店に行くことにした。
 ガイドブックのぼんやりした地図を頼りに歩くと、なんとなく地図の位置とは少しずれているようだけれど、フィッシュ&チップス専門の店に辿り着いた。
 店に入ると、16時ちょっと前という中途半端な時間だからだろうか、他に客はいなかった。もっとも、もともと店内で食べる客は少なく、英字新聞のようなちょっとオシャレな紙に包んで持ち帰るのが多いからかもしれない。店員は紛れもなく中国系で、フィッシュ&チップスが大好きでいつか本場ロンドンでフィッシュ&チップスの店を開くのだ…と夢を追ってロンドンに移り住んだのか、もともとロンドンに住んでいて、店員募集の張り紙を見てとりあえずここで仕事をして食いつなごうと考えたのか、それはわからない。
 壁のメニューを見ると、予想に反してフィッシュ&チップスといってもいろいろあるようだった。てっきり、オレの店にはこれしかないからね、みんなこれを食うんだからね、と席に着くやいなや人数分のフィッシュ&チップスが出てくるのかと思っていた。
 英語で魚の名前が書いてあるが、どれが何かわかるはずがない。とりあえず一番人気のあるものは何かと聞き、それと飲み物を注文した。わからないときは素直に店員に聞いた方が失敗がなくていい。
 ほどなく、熱々のフィッシュ&チップスが運ばれてきた。中途半端なサイズの皿に雑に盛り付けてある。魚のフライをナイフで切ろうとしたけれど、イモの上に魚のフライがのっかっていて、その固い衣を切ろうとするとイモがつるりと逃げてしまい魚がバランスを失う。切ったら切ったで、白い魚のみがホロホロと崩れてしまい、なんだかもうずいぶん汚らしくなってしまった。中国系はこれだからいやになる。中国四千年の歴史はぷっつりと途絶えてしまい、今では料理を含めさまざまな分野でいい加減かつヤッツケなのだ。
 初めて食べたフィッシュ&チップスは、なんというか、残念なものだった。これはフィッシュアンドチップスではなく中華系魚和薯だ、と僕は思った。
 ちょうどChip Weekだったらしいけれど、いつもと何か違うのか、僕らにはわからなかった。

 僕らは少し残念な気持ちで店を出て、大英博物館に向かった。店を出たのが16時少し過ぎ。博物館は17時半で閉まってしまうので、時間がないのだ。
 大英博物館は、全部見ようと思ったらとてもじゃないが1日じゃ足りない。長い夏休みの中の1日を費やすのであれば、それはそれで有意義なことだとは思うけれど、時間の限られた旅行の中ではもったいないと感じてしまう。だから閉館までの1時間でロゼッタストーン等どうしても見逃せないものだけを中心に見るだけで充分だと思った。ツマも普段は「せっかく入館料を払うのだからなるべく長い時間いよう、展示物は1個たりとも見逃さずすべて見て回ろう…」と言ってくるけれど、大英博物館は無料だからそのあたりは気にならないようだ。
 日本では博物館、それも企画展となると入館料は1500円くらいするだろうけれど、ここではもっとスゴイものがタダで見られるのだ。こんなのが近所にあったらしょっちゅう入り浸って、優雅な気分で展示物を眺めて古代に思いをはせ、何だか自分が少し賢くなったような気分になれるんだろうなあ、と僕は羨ましく思った。
 けれど僕らは、そんな優雅な気分など無関係で、まるでタイムアタックのように閉館まで館内をかけずり回った。もちろん、何だか自分が少し賢くなったような気分にもなれなかった。

 さて晩ご飯にはまだ少し早い。なにせ、ついさっき昼ごはんがわりのフィッシュ&チップスを食べたばかりなのだ。
 僕らはもう少し街を見て歩くことにした。
 博物館からホルボーン駅まで歩き、ピカデリー線でグリーンパーク駅へ。そこでノーザン線に乗り換え南下し、ウェストミンスター駅に着いた。乗り換えも慣れたもので、すいすいと移動できる。既に18時半、外はすっかり暗くなっていたが、ウェストミンスター寺院はライトアップされていた。建物には近づけず、張り巡らされた柵の外から見ることしかできなかったが、それが却って、まるで柵の向こう側だけが別の時代から忽然と現れたような錯覚を与えてくれて、ああこれは来てよかったねえとツマと頷きあったのだった。
 一通り感激した後、再びウェストミンスター駅に戻り、再びノーザン線に乗り、再びグリーンパーク駅へ。オイスターカードがあれば乗り放題だから、効率的な経路などというものは全く考えず、じゃんじゃん地下鉄に乗る。
 昨日はステキ!(以下略)の予約があったので素通りしてしまったが、ここにはフォートナム・メイソンがある。そこでロンドン土産を買って行こうかということになった。
 そこで売っているものは基本的に高級品で、上の方のフロアはもう縁がないと早々に諦め、紅茶やクッキーなど我々庶民向けのフロアで買い物を済ませた。
 1時間ほど過ごし、博物館を出てから乗ったピカデリー線に再び乗車し、博物館方面へ。なんだかもう行ったり来たりで、もうちょっと考えて行動すればいいのだろうけれど、もうすっかりロンドン通になった僕らは、ちょっと時間が余ったからじゃああそこへ行ってみようかと、まるで自分の街のように気ままに歩き回っていた。

 ピカデリーサーカス駅からたったひと駅のレイチェスター・スクウェア駅で下車。駅の近くのパブで、食事ができるらしいとツマが言うので、ついて行く。クラシック・ブリティッシュ・ローストという肉料理が名物なのだそうだ。毎度のことだけれど、ツマの情報収集能力には恐れ入る。
 店は駅のそばのちょっとした路地を抜け、少し大きな道に抜けたところにあった。パブ・ソールズベリー。1892年にレストランとしてオープンしたとのこと。なるほど、店先の看板にはクラシック・ブリティッシュ・ローストと書いてある。僕はとりあえず店を覗き込み、怖じ気づいた。店内は酔っ払いがぎっしり詰まっていた。何を言っているのだ、酒を飲む店なのだから酔っ払いがぎっしりなのは当たり前だろうと思われるかもしれないが、背が高く体格のよいイギリス人の酔っ払いがぎっしりというのは想像を超えたぎっしり感だ。立ち飲みが多いが、いくつか丸テーブルが置いてあって、当然そこにも酔っ払いが座っている。僕はツマに、こりゃあダメだよ、パッと見てわかるとおり、満席じゃないか、他の店を探そうよ…と弱音を吐いた。しかしツマはぎらりと僕を睨みつけたかと思うと、ひらりと身を翻し、酔っ払いをかき分けながら店の奥に進んで行く。ツマの姿はあっという間に酔っ払いの群れに飲み込まれ、消えてしまったのだった。何ということだ。僕は崩れるように膝をつき、もう二度と会えないであろうツマを想い、泣いた。そうして明日、私はたった独り旅立つのよ北へ、あの人の想い出だけを手荷物にルルル…。
 ほどなくツマが意気揚々と帰ってきた。奥の方に食事用のテーブル席が空いていたので食事ができるという。どうやってその席を確保したのか、それは今でも謎とされている。ツマはなぜか僕が見ている前では決して英語を話さないけれど、フイとどこかに行ったなと思うと交渉や確認を済ませて帰ってくるので、そこそこ話せるのだろうと思う。
 店の奥の方は、あまり混んでいなかった。後になって知ることになるのだけど、イギリスのパブではビールをカウンターで注文するため、ツマミもなしに飲むだけの酔っ払いがカウンターの前に群がっているのだ。
 僕らは食事をしに来たので、店の奥まで行き、食事エリアのテーブルにつく。さっそく、ビールとブリティッシュ・ローストを注文した。
 ビールを飲み、落ち着いて店内を見回すと、なるほど歴史を感じる内装だ。しかし古くささはなく品がある。日本では、少し古い店になると、ウチは老舗だからね、由緒正しきお店なんだからね、ありがたく思いなさいよ…となんだか高慢な態度を取るのでこちらは萎縮してしまい、ハイすいませんごめんなさいお邪魔させていただきます、と店に入った瞬間に上下関係が構築されてしまって妙な緊張感があるのだけれど、ここでは古い建物がたくさん残っているので老舗であっても普通の店なのだ。店内は、酔っ払いはやかましいけれど、不思議な穏やかさに満ちていた。
 しばらくすると料理が運ばれてくる。その頃にはもう最初のビールがなくなっているので、別のビールを注文する。
 ウェイターはサービスのつもりなのだろう、にこりと笑い「ニホンジノカータデスカ」とカタコトの日本語で話しかけてきた。突然のことだったので少し戸惑ったけれど、「ハイ、ソウデス」とカタコトの日本語で答えた。「ワラーシノニホンゴドデースカ」というので、「そうですね、仕方のないことですが、やはり少し英語なまりが気になります。特に『にほんじんの』の『JIN-NO』とNが連続する場合に片方のNを省略し、『JI-NO』としてしまうのは英語風の発音です。日本語では、連続したNは省略せず、正確に『JIN-NO』と発音します。また、『日本人の方』、というのは少し不自然です。日本の方、と表現するとより自然でしょう。ただ、特に矯正する必要はありません。日本語を母語としない方が日本語を習得することが難しいということを、我々日本人はよく知っています。あなたの日本語は、日本でも十分通じます。自信を持って、学習を続けてください」と言おうと思ったが、めんどくさかったので「ハイ、ジョウズデス」とだけ答えた。ウェイターは満足げに去って行った。
 さて、と僕らはやっとナイフとフォークを手に取った。
 肉はとても固そうに見えた。ほぼ赤身のみで、パイのような物が添えられている。それ以外は、ジャガイモを揚げたもの、にんじん、サヤエンドウと、特に変わった様子はない。皿に載りきらなかったかのようにオニオンリングだけが別皿で添えられていた。
 ぐい、とナイフを入れるが、いや、と肉がはねのける。やっぱり固いのだ。それでも切らないわけにはいかないのでもう一度ぐいぐいとナイフを入れると、連続攻撃が効いたのか肉は切れてくれた。肉は固いけれども味はなかなかのもので、これがクラシックだというのだから、もともとイギリスのご飯がマズいというのが嘘なのか、それとも見た目はクラシックだけれども味の方は日々進歩していて近年ではまともに食べられるようになったのかはわからない。
 ともあれ、僕らはイギリス伝統の味、ビールとブリティッシュローストを堪能したのだった。