第8話 6日目 パスティと正統派フィッシュ&チップス


 6日目の朝を迎えた。空はやっぱり曇っているけれど、憂鬱になるような厚い雲ではなかった。
 ホテルのレストランに向かう。レストランの中心にパンやチーズ、シリアルの載ったテーブルがあるがそれ以外のいわゆるオカズがない。席に案内されると、紙切れのようなメニューを渡された。それには、フル・イングリッシュ・ブレックファーストやら、サーモンがどうしたベーコンがどうしたと書いてある。ウェイターに聞くと、オウ説明を忘れていましたと言い、イギリス風の小さいトーストと紅茶は持って来てくれて、それ以外のパンやチーズが食べたい場合は自分で取り、オカズ類はリストの中から1つ注文するのだと教えてくれた。ついでに部屋番号も聞かれたが、それは朝食代を部屋につけるためだ。
 僕らはフル・イングリッシュ・ブレックファーストの虜になってはいたけれど、さすがにちょっと毎日毎日食べ過ぎじゃないだろうかと反省し、僕はベーコン、ツマはサーモンを注文した。パンはトーストがあるからいいけれどチーズを食べたいよね…と中央のテーブルからチーズを取っていると、先ほどのウェイターがやってきて、部屋番号を忘れてしまったという。やたらとうっかりするウェイターなのだ。どうせならもう一つうっかり間違えて別の部屋に付けてくれればよかったものを、と思うけれど、逆に他の部屋の朝食が僕らの部屋に付けられてしまう可能性もあるわけで、バースの朝は油断したら負けなのだ。
 早々にチェックアウトし、荷物を車のトランクに放り込んだ。車での旅はいろいろと面倒なこともあるけれど、それ以上に便利なことが多い。駐車場には観光案内のパンフレットの自動販売機があり、海外の自販機はちょっと信用できないんだよなあ…と恐る恐るコインを投入すると、折りたたまれた簡単なパンフレットがニュッと出てきた。自販機が動いたのは良かったけれど、このくらいのパンフレットは無料配布されていてもいいのではないだろうか。バース観光協会の方々はこれを機にこの配布形態を再考していただきたい。
 バースは大きな町ではない。ホテルから数分歩くとローマ風浴場の博物館に着いた。ここでは音声ガイドが借りられるが、当然のように日本語も用意されている。やはり日本人は風呂好きだから大勢来るのだろうなあ。でもわざわざ来るほどのものでもないかもなあ。25mプールのような大きな風呂には水が張ってあり、手足を入れるなと書いてあるのに何人かが手を入れて水の感触を確かめていた。恐れを知らぬ奴らだ。手を入れた瞬間にジュッといって骨だけになってしまったらどうするつもりなのだ。手が骨だけになったあげく、だから手を入れるなと言ったじゃないですかと叱られてしまうのだ。踏んだり蹴ったりではないか。賢明な僕らは水に手をつけたりせず、遺跡などの展示物をのんびりと1時間半ほど鑑賞した。
 まだ昼ごはんには少し早い。バース寺院を見て行くことにした。ここはいくつものステンドグラスや巨大なパイプオルガンが見所だ。建物自体も立派で、おおすごいなあとは思ったけれど、こういったものを既にいくつも見てしまったのでやはり感動は薄れてしまう。贅沢だなあとは思うが仕方がない。毎日いろいろなことに感動していた純粋な少年時代はもう手の届かないほど遠くへ置き去りにしてしまったのさラララ…と僕は少ししんみりと寺院を出た。
 バースにはもう一つ、見所がある。ロイヤル・クレセントという集合住宅だ。なんだよアパートなんか見たってしょうがないよと思うかもしれないが、このロイヤル・クレセントは世界一美しい集合住宅と言われていて、世界遺産に登録されている。半円形の芝生の広場を取り囲むように、建物も半円形になっている。その直径は約180m、竣工は1775年だそうだ。ただのアパートだがこれは確かに美しいじゃないか。あまりに美しいので、イギリスでは一時この形が流行し、探すといくつか同じような建物が見つかるらしい。
 気がつくと正午を大幅に過ぎていた。僕らは、なんということだ早く昼ごはんを食べなければ、と町の中心部に戻った。なにか気軽に入れる店はないだろうか…と見回すと、ツマがあれにしようと指さした。ウェスト・コーンウェル・パスティと書いてある。このパスティというのは具がたっぷりつまったパイだそうで、この地方の伝統料理なのだそうだ。店は混雑していたが、なんとかテーブルを確保できた。注文すると、結構な大きさのパイでこれだけで昼ごはんとしては十分だろう。パイはサクサクと香ばしく、たっぷり詰まった肉も旨い。ここでもやっぱりイギリスは旨いのだった。
 空腹が徐々に満たされ、落ち着いて店内を見回すと、カモメに餌をやらないでくださいとの張り紙がある。その横には海賊の船長がパスティをほおばっている絵が描いてあったりして、なんとなくだけれど、ふーんこの店はそんな感じの作りなのね、と小さく何度か頷いた。小さく何度か頷く、というのはつまりあまり納得していないという意味で、コンセプトがそれほどはっきりと伝わってこないのだった。もっとも、あまりコンセプトにこだわりすぎて店員が海賊風のコスチュームを着ていたり、注文すると厨房に「野郎ども、パスティを2つだ!」などと叫んだり、会計の時に代金を渡そうとしたら店員の腕が鈎型の義手だったりすると、こちらとしてもちょっとどう反応していいかわからなくて曖昧にアハハと笑うしかなくなってしまうので、この程度でちょうどいいのかもしれなかった。
 腹ごなしに少しだけバースの町を歩き、午後2時になろうかというところで、いよいよストーンヘンジに向かうことにした。

 ストーンヘンジまでの道のりは、約60キロ。途中に小さな集落があったけれど、その他は何もなく穏やかな丘陵地帯が続く。すれ違う車も少なく、信号もないので1時間程度で到着した。
 広い駐車場には50台くらいの車が駐められていて、大きな観光バスも何台かいる。ここらにはストーンヘンジ以外は何も見る物がないから、みんなストーンヘンジだけを目的にこんな辺鄙なところまで来るのだ。さすがストーンヘンジ。
 チケットを買うには並ばなければならなかった。とはいえ、50人の行列は5分程度ではけてしまった。団体だったのでするすると進んだのだろう。チケット売り場ではガイドブックを売っている。まずは当然のように英語版があり、海を渡ってお隣のフランス語版、フランスのお隣のスペイン語版、ちょっとクセのあるドイツ語版、そして遠くからはるばるやってきた僕らのために日本語版が用意されていた。日本人の観光客が多いのだろうか。せっかくなので1冊買うことにした。
 入場料は大人7.8ポンド(1170円)と、結構高い。維持費やら何やらで大変なのだろうけれどちょっと高すぎではないだろうか。大英博物館のように立派な建物に数々の美術品が並んでいるところはタダなのに、なんでこんな野っ原(失礼)に石ころ(失礼)が突っ立っているだけ(失礼)のモノを見るのに7.8ポンドなのだ。嫌なら見に来るなと言われるかもしれないがごめんなさい見させてください。
 今日は午後4時まで、という張り紙がある。時計を見ると午後3時を少し回ったところ。あと1時間しかないじゃないか。急げ急げ。
 チケットを買うと、音声ガイドも貸してもらえた。料金は音声ガイド込みなのだ。日本の美術館等では音声ガイドを500円くらいで貸しているので、それを考えれば先ほど憤慨した料金も実は妥当な料金なのかも知れない。道路の下を通っている通路を抜けると、遠くにストーンヘンジが見える。何もない平原に、巨石がいくつも立ち並んでいる。おお…、と僕は感激した。古い建物や荘厳な寺院はもう見慣れてしまったけれど、こういった遺跡は新鮮だ。しかもかの有名なストーンヘンジ。いいじゃないか、これはとてもいいじゃないか。
 しかし、今は2月。あたりには遮るものもないので冷たい風が直に体にあたる。遺跡云々の前に寒くて寒くて凍えてしまう。僕らはガタガタガタガタと震えながら、しかし7.8ポンドの元を取るのだ!と必死で音声ガイドにくらいつく。ストーンヘンジを遠く囲んだロープの周りを歩いて、さまざまな角度からストーンヘンジを眺める。けれど、どこからみてもあまり代わり映えしないので次第に飽きてくる。冷たい風が鋭く突き刺さり、徐々に体力が奪われる。とうとうツマがよろけて膝をつく。僕はツマの頬を叩き、「7.8ポンド!7.8ポンド!」と叫ぶ。ツマは震える小さな声で、もういいから私を置いて先に行って、と涙を流す。僕は人差し指で涙をぬぐうと、ほらきみの涙はこんなにも熱いじゃないか、きみはまだ生きるのだ!と力強くツマの右腕を引いて立ち上がらせた。そうして二人は再び歩きだし、結局、寒い寒いといいながらも閉園ギリギリまで居残ったのだった。出口は当然のようにショップに直結していたけれど、特にみやげとして面白いものはなかった。
 ストーンヘンジを後にして、今日の宿泊地であるソールズベリーに着いた。あっけなく着いてしまったけれど、車で20分くらいの距離しか離れていないのだ。
 ホワイト・ハート・ホテル・ソールズベリーは、世界中で展開されているメルキュール・ホテルの一つだった。こういった地方の小さなホテルがどんどんチェーン化されるのはなんとなくもったいない気がするけれど、アメニティやサービスは間違いなく向上するので歓迎すべきかもしれない。チェックインのときに、フロントのおばちゃんが何か言ったけれどよく聞き取れない。最終的には、荷物を運ぼうか、それても自分で運ぶか聞かれていたということがわかったのだけれど、地方の町に住む年齢層が高い人は、イギリスなまりといってはちょっとおかしいけれどやっぱり少し発音が違うのかもしれない。
 そのままホテルにいてもつまらないし、晩ご飯を食べなければならないので外に出ることにした。ソールズベリーは都会ではないし観光地でもないので、日常的な街並みを楽しむことにする。町は思いのほか店が多かった。そしてどの店も暖色系の明かりを少し漏らしており、空気は冷たかったけれどなんとなくほんわかゆったりと夕暮れを迎えていたのだった。
 特に見るところもなく歩いていると、こぢんまりしたスーパーマーケットがあったので入ってみる。地元の人が利用するスーパーは、文化や生活の違いが良くわかって、じつは観光スポットや博物館よりも楽しいのだぞ、と僕は常々思っている。清潔で広く明るい店内は蛍光灯で白く照らされていた。街並みはもう100年200年とあまり姿を変えていないのに、やはりこういう店は近代的な作りなのだ。ドーナツやピザ、大きなパン等が並んでいて、このあたりの人々の食生活はなるほどこんな感じなのだねえキミ、と僕は急にソールズベリー・食と住まいの調査団団長となってツマ団員と頷きあったのだった。
 5分ほど歩いて川を渡ったところに、もうひとつ、今度は大きめなホームセンターがあった。衣料や日本製のテレビなども売られている。テレビのサイズは102cm(40")と書かれていて、こちらではテレビのサイズはセンチメートルで表すのだねえキミ、40インチで5万5千円というのはあまり日本と変わらないねえキミ、とイギリス家電・特にテレビ調査団団長は言ったのだった。
 午後6時を過ぎると、外はもう真っ暗だ。ちょっと早いかもしれないけれど、晩ごはんを食べることにした。広場に面したところに、フィッシュ&チップスの専門店、ストービーズがあった。レストラン・アンド・テイクアウェイと書いてあり、ロンドンでフィッシュ&チップスを食べたときはテイクアウトするべきだったかもと反省したけれど、さすがに晩ご飯がテイクアウトの食べ歩きでは寂しいよね、ということで店内で食べることにした。
 1階は厨房およびテイクアウト用のカウンターになっており、レストランは2階へ、という張り紙がある。その上にメニューが貼ってあり、なかなか気が利いている。ただし金額は書いておらず、でもすべて税込みですとは書いてある。枠に囲われた凡例があり、注文があってから調理するものには米印、ベジタリアン向けのものにはV印、事情により提供できないことがあるものにはWA、とのことで本当に気が利いていると思うけれど、どの料理にもそのような印は付いておらず、非常に中途半端で残念だ。
 矢印に従って階段を登ると、登り切ったところにまた張り紙があり、レストランはこちら…と矢印が書かれている。そんなに書かなくても迷ったりすることはないのにな…とやや過剰気味な張り紙を横目に2階のレストランに入って行く。
 店内はとても細長く、ひょっとしたら昔の日本がそうだったように間口の幅で税金が決まることの対策なのかもと思ったが特に調べようという気にはならなかった。僕は南イギリス・住居と税の調査団員ではないのだった。
 細長い店の一番奥、窓側のテーブルに着くと、メニューが置いてあった。それは先ほど1階で見たものと同じで、ただし料金と記号が書かれている。なるほどこういうことだったのか。でも入口で料金がわかった方が安心なのにな、と思う。ひょっとしたらイギリス人は金額をあらわにすることをヨシとしないのだろうか。
 フィッシュ&チップスの他に、チキンやハンバーガーもあるようだ。もちろん、せっかくのイギリスなのだからフィッシュ&チップスを食べることにする。だいたい7ポンド(1000円)前後というところで、軽い夕食のつもりだったのに結構値が張るのだ。
 店員が、ソースは何にするかと聞いてきた。何があるかと訪ねてみると、店員は何種類かのソースの名前を言った。その中で、「トウトウソース」というのだけが何度聞き返してもわからない。店員は「トウトウソースはトウトウソースだよ、他にどう説明しろってんだ困ったな…」と肩をすくめ、僕らはせっかくの一皿を台無しにしてしまう可能性に怯えながらトウトウソースという得体の知れないソースに挑戦すべきか、ケチャップ等の無難なものを選ぶべきか…と議論を重ねた。激しい舌戦は数時間におよび、東の空が明るくなり小鳥のさえずりが聞こえ始めた頃、まさに両者力尽きようか、というところで僕らは原点に帰ることにした。すなわち、白身魚のフライを食するにあたり、ソースはどうしたらよいだろうか、ということだ。僕はフライと言えば中濃ソースをたっぷりかけるのが好きだけれど、付け合わせがフライドポテトとなると話は違ってくる。フライドポテトと中濃ソースは合わないのだ。であれば、何を選択すべきか。一つは、不動のテーブル調味料キング、トマトケチャップだろう。しかし今はフィッシュ&チップスを2皿注文したので、もう1種類のソースを選ぶことができる。白身魚に合うもう一つのソースと言えば1つしかない。少し守備範囲は狭いけれど、真っ赤なトマトケチャップの対極をなす、その上品な白さはテーブル調味料のクイーンと言っていいだろう。そう、タルタルソースだ。
 ここまできてやっと、はた、と気づいた。トウトウソースはタルタルソースなのだ。僕らはトマトケチャップとトウトウソースことタルタルソースを選んだ。店員さんと僕らは3人でなんとなくホッとして微笑みあったのだった。
 この店のフィッシュ&チップスは、ロンドンで食べた中華系魚和薯ではなく正統派フィッシュ&チップスだった。すなわち、ほどよい大きさの皿の上に大きな白身魚のフライが載っており、付け合わせのイモは付け合わせらしくフライの横に付き添うように盛られている。緑色の豆を潰したマッシュド・ピーと厚切りのレモンスライスも添えてあり、これだけで立派な料理と言える。
 ここのフィッシュ&チップスは、やたら固いということもなく、なるほど名物でありイギリス人みんな大好き(たぶん)というだけあってとても旨かった。ほらみろ、何度も言うけどやっぱりイギリスは旨いのだ。僕らは30分ほどで簡単な夕食を済ませ、満足したのだった。
 満足したとはいっても、前述したとおり、酒がなければ僕らの食事は始まらず、終わらないのだ。つまりまだ夕食は始まっておらず、終わってもいないのだ。そんなわけで先ほど寄ったスーパーに向かい、ビールとつまみ、それから明日の朝ごはんを買って、ホテルに戻ったのだった。