第9話 7日目 ヨーグルトとパブのつまみ


 最初の頃は、めずらしさと旨さから「朝食はフル・イングリッシュ・ブレックファースト!」と毎朝目を覚ました瞬間に叫んでいた僕らだったが、7日目ともなると旅の疲れもあり「朝は少しのんびりしたいよね…」と弱気を吐きだした。そんなことではいかん!限られた日数及び時間を有効に使うためには朝早くに起き、レストランもしくはカフェで現地の名物を食し、一息つく間もなく次の観光地へ急げ急げ!などと言って僕らの尻を叩く強行訪英突貫旅行団団長はもはやおらず、いや最初からいないのだけれど、とにかく僕らは少しゆっくりと朝を過ごすため、朝食はゆうべスーパーで買っておいたのだった。
 小さなパン、それからヨーグルトとシリアルが一体になったもの。ヨーグルトのカップの上にシリアルのカップが載っており、混ぜて食べるのだ。ヨーグルトの蓋には「うむむ…旨い!」と大きく書いてあって、自信の程がうかがえる。まずいまずいと言われてはいるけれど、どうやら昨今はイギリス人も味には自信を持っているようなのだ。
 簡単な朝食をのんびりとすませ、チェックアウトしたのは9時を過ぎていた。車をそのままホテルに置き、歩いて近くの大聖堂に行った。この町には何にもないと言ったけれど、たった一つ、ソールズベリー大聖堂というりっぱな見所があるのだった。
 ホテルから大聖堂までは歩いて10分程だった。1220年から100年かけて建てられた大聖堂には、今までいくつか同じような物を見てきたつもりだったけれど、圧倒されてしまう。広い敷地にどんと建っているので、より荘厳さが増すのかもしれなかった。
 入ってみると、寄付をもとめる箱があり、ただで見せてもらうのも悪いよね…と1ポンド紙幣を投入した。2人で1ポンドというのはけちくさいかもしれないが、日本の神社だって1人当たり5円10円なのだ。それを考えれば破格の寄付金ではないか。寄付金を入れると、神父というのか司祭というのか牧師というのかわからず、ひょっとしたらただの事務員である可能性もあるわけだけれど、そういう人が近寄ってきて、「現在サービス中だ」と言う。僕はサービスの意味がわからず、なにかくれるんだろうかとワクワクしたけれどそうではないらしい。続けて、サービス中なので写真は撮るなという。なぜサービス中は撮ってはいけないのだ。いやサービス中だから存分に撮ってくれと牧師もしくは事務員が目の前でポーズを取っても扱いに困るわけだけれど、サービス中だから撮るなとはおかしいじゃないか。
 とにかく僕は訳がわからないながらも、ようし写真を撮らなければよいのだな、わかった撮らないとカメラをカバンにしまい、そうそうに退散したのだった。
 この大聖堂には、意外なことに新しくきれいな土産物屋とカフェがくっついている。隣に建っているのではなく、まるで増築でもしたようにくっついているのだった。土産物屋に入ってみると、なかなかバラエティーに富んだ品揃えだった。僕は旅先のハットピンを集めるのが趣味で、ここでも1つ買って行くことにした。1.5ポンドと手頃なものを1つ選び、会計を済ませる。と、なんだかお釣りが少ないじゃないか。あれあれどうしたことか…と思ってレシートを確認すると、2.15ポンドと書いてある。再びあれあれどうしたことか…と売り場に戻ってみると、やはりそこには1.5ポンドと書いてあり、僕の間違いではないのだ。僕は初日の空港での出来事を思い出した。イギリス人は悪逆非道なのだ。アジア人はどうせ多少金額を間違えても泣き寝入りするだろうからとわざと間違えたのだ。僕はレジに突進し、レジの若い女性の胸ぐらを掴むとセクハラもしくはチカン行為になってしまうので、静かにレシートを差し出し、これは1.5ポンドのはずだが間違いではないかと問いただした。レジの女性は慌てる様子もなく、あらまあ間違っちゃったとレジを打ち直したのだった。なんだかやっぱりわざとやったのではないかという雰囲気で、もしそうなら出るところへ出てやろうかと思ったけれど、イギリスにおいて出るところがどこなのか知らなかったので諦めた。お金が返ってくればそれでいいのだ。
 ツマが、そろそろ30分経ったので大聖堂に戻ろうという。なにが30分なのだと聞くと、先ほどのサービスが30分で終わると言っていたとのことだった。そんなこと言ってたかなと戻ると、大聖堂の中は少し観光客が増えていて、みな普通に写真を撮っている。あらためてみると柱の1本1本が美しく、大きくて精細なステンドグラスがすばらしい。心が洗われるよう…とよく言うが、ここでは本当に心が洗われるのだった。
 後で調べてわかったことだけれど、サービスというのは礼拝のことだった。なるほど礼拝中なら写真を撮るなという主張も頷ける。
 1時間ほど、大聖堂のあちこちを見て回り、僕らはソールズベリーを後にした。

 最後の目的地は、130kmも離れたセブン・シスターズだ。
 海に面した緩やかな起伏を持つ丘が波に削り取られ、大きな白い岩壁が連なっている。それが7人の姉妹のように見えるのだそうだ。
 高速道路のM27号線を東に向かう。相変わらずの曇天で、たまには青空を見ないと気が滅入ってしまう…と思いながらも、交通量が少なく快適なドライブが続いたので実際は気が滅入るどころか走るのが楽しい。サウザンプトンを抜け、ポーツマスへ。そこで高速道路は終わり、一般道を走ることになるが、これも快適な道だ。イギリスのドライバーはとても紳士的で、割り込みなどはしない。というか割り込むまでもなくスムーズに合流できるように受け入れてくれるのだ。日本では合流地点で、俺の前には絶対に1台も入れさせないんだからね!と前の車にぴったりくっついたり、少し車間が空いているので入ろうとすると急に加速して車間を詰めたりというドライバーをたまに見かけるが、そういう幼稚なドライバーはイギリスではいないか、いてもかなり少なそうだ。当然、歩行者が道を渡りたそうにしていたら車を止める。歩行者の側も、道を横切りながらにっこりと笑って手を振ってくれたりして、車が社会になじんでいるというのはこういうことなのだろうなあ、と羨ましく思った。余談だが、日本に帰ってから最初に車に乗ったとき、周囲の車のマナーの悪さに辟易し、運転するのが怖かった。中国や韓国の運転マナーは酷い、と言う人がいるけれど、実は日本もかなりマナーが悪く、幼稚なドライバーが多いのだ。
 セブン・シスターズ国立公園までは2時間半の道のりだった。駐車場は有料で、パーキングチケットを買って車内に掲示しておく。2時間までは2.5ポンド、それを超えるなら3.5ポンド。おおざっぱな料金体系だが、1日3.5ポンドだけどちょっと食事するだけなら2.5ポンドでいいよ、という意味だと捉えると良心的だと思う。
 案内図を見ると、セブン・シスターズのある海岸までは2キロほどあり、ずっと遊歩道を歩かなければならないようだった。2月下旬ということで、ここも非常に寒い。寒い中をトボトボと歩いて行かなければならないのだ。そうまでして白い岩を見に行ってどうするのだ、と思ったけれど今さら引き返すわけにはいかないので仕方なく歩き出した。遊歩道の入口付近にはカラフルなアイスクリームの移動販売車が停まっており、まったく西洋人というのはこんなに寒いのによくアイスなど食べる気になるものだなあ、と思ったが、客は誰一人いなかったのでやはり西洋人も寒い日にはアイスを食べないのだろう。だとするとこの店はなぜこんな寒い日に出店しているのだ。タコ焼きか中華まんの屋台を出せば爆発的に売れるかもしれないのに、なぜアイスなのだ。
 アイスの疑問が解けないまま、代わり映えしない景色が続く遊歩道を30分ほど歩くと、やっと海岸に着いた。海岸はこぶし大の石がごろごろしており、歩きづらい。キャッキャウフフと追いかけっこでもしたらどちらかが足を挫いてしまい、約2キロの道のりを戻るのが大変難しくなる。僕らはキャッキャウフフを断念したのだった。
 セブンシスターズの断崖は海に面しているので、当然陸側からは見えない。けれど今は幸い潮が引いているので、海岸に沿って歩けば断崖のすぐそばまで行くことができた。セブンシスターズは、高いところで150メートル。真っ白で垂直な崖はとても大きいけれど、ひょっとしたら今にも崩れてくるのではないかと思えるほど、繊細で華奢にも見えてしまう不思議な崖だった。僕らはその崖を見上げたり、つい先ほど崖から落ちてきたようにも見えるきれいな真っ白い石を拾い上げて、フムフムと何かを知っているようなふりをして頷いたりした。せっかく来たのだからと、なにか面白い物は見つからないだろうかと辺りを見回してみたが何もない。やがて冷たい海風に耐えられなくなり、僕らは再びトボトボと歩いて戻ることにしたのだった。
 時刻は間もなく午後3時。駐車場近くのエキシート・ファームハウスで軽く紅茶とスコーン、ケーキなどを食べ、ロンドンに向かうことにした。
 今日はレンタカーを返す日なのだ。

 セブンシスターズからロンドンまでは、100キロもない。燃料計を見ると、まだ十分余裕があるように見えた。この車はタンクが大きいのか燃費がいいのか、借りてから一度も給油せずにここまで走ってきた。
 2時間ほどで、懐かしいロンドンの街並みが見えてきた。さて最後に満タンにして車を返せば楽しかったドライブもオシマイ…と少し感傷に浸り、たった3日間だけれど一緒に旅をしたこの車との別れを寂しく感じる。しかしさすがに夕方のロンドンの街は帰宅ラッシュなのか少し渋滞しており、レンタカーの返却時刻が迫っていたので僕は少し焦り始めた。さらに燃料計を見ると、針が限りなくゼロに近づいている。なんだこれは!いつのまにこんなに減ったのだ!僕が見ていない隙に針がグイッと動いたのか!と、僕は冬だというのに全身にじっとりと汗をかき、いやまだ大丈夫、ロンドンといえば大都市、いくらでもガソリンスタンド、いやこちらではペトロールステーションか、いいやどっちでもいい、とにかくガソリンくらいどこでも売っているのだ…と念仏を唱えるように呟きながらカーナビに従ってレンタカー屋に向かった。
 ところが、ガソリンスタンドが見つからない。不思議なことに1軒も見つからないのだった。車は渋滞に巻き込まれ、なかなか思うように進まない。進まなくてもガソリンは減るのだ。こうなったら仕方ない、タンクはほとんど空だけどこのまま車を返そう、割高なガソリン代やサービス料を支払うことになろうと、仕方ないじゃないか。しかし、やがてガソリンがほとんど残っていないことを警告する赤ランプが点ると、いよいよ僕は観念し、ガス欠で止まった場合にどのようにレンタカー屋に連絡すれば良いか、連絡は公衆電話を使うのか、ああそういえばロンドン名物の赤い電話ボックスで電話するなんてちょっとロマンチックねぇウフフとか言ってる場合じゃないだろう、とやや錯乱しつつ、焦りから道を間違えてしまい、その道が一方通行で戻ることもできず、高い建物に挟まれた細い道に迷い込んでしまってGPSをロストし、つまりはもう絶体絶命四面楚歌冠婚葬祭支離滅裂という状態に陥ってしまった。
 ああもうダメ…、もういいや最後に思いっきり空ぶかししてガソリンを使いきってしまえアハハ…、と諦めた瞬間、目の前にガソリンスタンドが飛び込んできた。僕は本能的にグイッとハンドルを切り、ガソリンスタンドに飛び込んだ。目の前に飛び込んできたガソリンスタンドに飛び込んだのだ。なんだかやたらと飛び込むあたり、どれだけ焦っていたかわかってもらえると思う。なんとか給油位置で車を止め、エンジンを切ると、僕は深く長いため息をついた。
 給油を済ませ、レジに代金を払いに行くと、レジのあんちゃんが「オイルを交換しないか。メンバーズカードを作れば安くなるぞ」と言ってきた。僕は安堵のあまり妙な脳内物質が出ていて何でも来い来いエビバデハッピーな状態となっていたが、どうしてレンタカーのオイルを僕が交換しなければならないのか、メンバーズカードを作ったところでこの先ひょっとしたら使う機会がないのではないか、ということに気づき、断ることができた。
 なんとかレンタカー屋に辿り着くと、バンパーに傷が付いているという。いつぶつけたのか?と聞かれたけれど、まったく心当たりがない。レンタカー屋は、ふん、と鼻を鳴らすと、報告書を書かなきゃならないから待ってろ、と言った。
 店の隅のソファーで待っていると、店員が報告書と思われる用紙を持ってやってきて、再びいつぶつけたのかと聞いた。いや本当に全然心当たりがないのだと言うと、店員は「修理代を出せと言っているのではなく、いつぶつけたのかを報告書に書かなければならないのだ」と言う。僕はカネが惜しくてしらばっくれていると思われているのじゃないかと少しカチンときたが、仕方なく「本当に心当たりがないんだけど、ぶつけたとしたら、まあ、たぶん、今朝じゃないかと…」と答えると、店員は「今朝ね、今朝…」と呟きながら報告書に記入し、僕らは放免されたのだった。3日間の旅を終えてしんみりお別れ…のつもりが、なんともスッキリしない結末となってしまった。
 レンタカー屋の前で流しのタクシーを捕まえ、ホテルに向かう。このタクシーも2階建てバスと並ぶロンドンの名物で、ずんぐりとした独特の形をしている。この形にはちゃんと意味があって、トランクがなく、代わりに客の乗る後部座席がとても広くなっている。どれくらい広いかというと、大人2人が大きなスーツケース2個を車内に持ち込み、それでもまだ余裕があってなんだったら床に寝転んでみようかというくらい広い。日本のタクシーは、最近はプリウスなども増えてきたけれど、いまだに主流は古くさい後輪駆動のセダンで、狭くて仕方ないうえにフロアの真ん中が盛り上がっていて邪魔だ。さらにトランクは広いけれどほとんどがガスタンクで占められていて大きな荷物も積み込めない。そのうえちょっと乗るだけで法外な料金を請求されるのだからたまったものではない。地下鉄もそうだけれど、日本のタクシーはイギリスを見習ってもっと客のことを考えるべきではないかと思う。
 タクシーはやがてパディントンのヒルトンホテルに到着した。旅の宿選びにはセオリーがあって、選択肢があるのであれば安宿から始めてだんだんランクを上げて行くのだ。最後の夜にはその旅最高ランクのホテルを持ってくると、非常に気分がいい。そんなわけでちょっと贅沢してヒルトンホテルなのだ。
 チェックインを済ませて部屋に入ると、さすがはヒルトン、部屋は広くきれいで、ミニバーには高そうな酒がずらりと並んでいる。キャビネットには無料のコーヒーや紅茶がこれでもかこれでもかと、しかし上品に詰め込まれている。酷いホテルでは前の客が飲んだコーヒーがカップの底にこびりついていたりするけれど、当然そんなことはなく、純白のカップが2つ並んでいた。
 けれど部屋が広くてきれいなだけでは腹はふくれないのだ。僕らは晩ごはん及び酒を求めて街に出た。何軒か覗いてみたけれどピンとくるものがなく、結局はホテル近くのディケンズというパブに入った。イギリスのパブというのは恐ろしいところで、ビールと食べ物をカウンターで注文し支払いを済ませると、食べ物は後でテーブルまで運んでくれるのだが、ビールはその場で受け取る。つまり、ビールだけを飲みたいならずっとカウンターにいればいいわけで、当然カウンターには人だかりができている。しかもその人だかりのほとんど全員が体格の良いイギリス人で、例外なく全員が酔っ払いで、例外なく全員が手にビールを持っている。そこを細くて小さい日本人がかき分けかき分け、やっとカウンターに辿り着いてビールと食べ物を注文する。ほんとうに大変なのだけれど、それでもシドニーのフィッシャーマンズワーフで中国人をかき分けて食料を買うのに比べたらなんてことないのだ。
 僕はロンドンの名が付いたロンドン・プライドというビールが飲みたかったが、あいにく売り切れとのことだった。イギリスはパブ文化は栄えているけれどビールはどうもないがしろにされているように思える。いや、逆に鮮度を気にするあまりギリギリのぶんしか仕入れないのか、それとも店の保管許容量を超えるほどのビール客が連日連夜押し寄せるのかもしれない。
 僕らはパイとマッシュポテト、ふかしたジャガイモを割ってベーコンを挟んだ物をツマミに少し飲んだ後、少し飲み足りなかったねぇ、と駅の売店で酒を買い、ホテルに戻り、最後の夜を過ごしたのだった。