第10話 最終日 カレーとカップケーキ


 2月25日、とうとう最後の日がやってきてしまった。のんびりと朝食を済ませると、まずは駅に向かい、空港行きの特急、ヒースローエクスプレスの切符を購入した。空港からロンドンへは地下鉄でのんびり来たけれど、帰りは少しでも長くロンドンにとどまりたいので金に糸目を付けないのだ。というほど高くはないのだけれど、気分的にはそんな感じなのだ。
 地下鉄を乗り継ぎ、ベーカーストリート駅へ。ご存じシャーロック・ホームズゆかりの駅だ。架空の人物だけれどゆかりなのだ。駅を出るとホームズの銅像が建っており、柴又駅に寅さんの像があるのとまったく同じで少し笑ってしまった。
 その後、シャーロック・ホームズ・ミュージアムに入ったけれど、ふむふむなるほどこの部屋はあの事件の様子を再現しているのだな…と言えるような知識もなく、へー、ほー、ふーん、と大した感想もなく終わってしまった。ここではホームズやワトソンに扮して写真が撮れるように帽子やパイプなどの小道具が用意してあるので試してみたけれど、僕らには「ホームズと言えば帽子を被って、パイプを持って…」というボンヤリとしたイメージしかなく、ボンヤリした写真が撮れただけだった。
 でもまあいちおう名物なので…と満足した気分になり、次はアビー・ロードに向かう。
 ビートルズのレコードジャケットに使用されたことで全世界的に知れ渡ったアビー・ロードの横断歩道は、特に何と言うこともない普通の街の横断歩道だった。車の往来もなかなか多く、横断しているところを写真に撮るのも一苦労だった。しかもビートルズは4人だけれど僕らは出演者1人カメラマン1人という構成にならざるを得ず、何度か撮影を試みたけれど結局は普通の横断歩道を普通に歩いている人、というつまらない写真になってしまった。
 それでも、ああ僕は今あの4人が歩いた横断歩道を渡っているのだ…と無理に気分を高揚させようと思えばできないことはなかったので、わざわざ来て良かったなあ、と思うことにした。
 さあ正午を回って時間がなくなってきた。滞在時間はあと4時間ほどしか残されていない。いそげいそげ。
 ベーカー・ストリート駅に戻り、そういえばと駅に入ってすぐの所にある店でカップケーキを買う。ロンドンの名物のひとつでもあるので食べたかったけれど、名物のくせになかなか売っているところを見ないので、本当に名物なのか怪しいものだ。キャンディ・ケークスというその店は、店構えからしてラブリーでプリティーでガーリィなのでたぶんそういう人がたくさん買いに来てキャーキャーピーピーとうるさいのだろうなあと思ったけれど、平日の昼間ということもあってひっそりと静かにケーキを買うことができた。ケーキは緑とピンクでハート柄の紙袋に入れられてしまい、これは持って歩くのが恥ずかしいぞ…とツマに預けたのだった。
 さてそろそろ昼ごはんを…と、カムデン・タウンに向かった。ここは原宿をちょっとパンクな感じにして子供っぽさを差し引いた雰囲気の街で、平日だというのに賑わっていた。なにを買うでもなく、街の作りを楽しむ。店の雰囲気はどれも独特で、店の正面の壁に様々な巨大なオブジェが貼り付けられている。3mくらいあるバスケットシューズがあるのは靴屋のようだけれど、隣の巨大ジーンズを掲げた店では女性用のワンピースしか売っていないように見える。5mはあろうかという飛行機が貼り付けてある店はレザー専門店で、飛行機とは何の関係もない。どれもこれも商売とは関係なく、ただ目立とうとしているだけのようだった。
 おやこんなところに駐輪場が…と思うと、それはスクーターの後ろ半分だけが切り取られてベンチ代わりに並べられているものだった。30台ほどはあるだろうか。カラフルで遊び心があり、楽しい。ところでこのスクーターの前半分はどこにあるのだろう、やはりこれと同じようにどこかに並んでいるのだろうか…と考えたけれど、前半分ではどうにも使い道がなさそうなのでたぶん廃棄されたのだろう。
 ここにスクーターのシートが並んでいるのには訳があって、小道を挟んだ反対側には小さな食べ物屋が連なっている。フィッシュ&チップスやハンバーガーの他、インドや日本、その他アジアの食べ物屋がたくさんあり、そこで買ったものをスクーターに座って食べるようだ。
 さてさて何を食べようか、と物色していると、いちばんおいしそうなのはカレーだった。海外では日本のカレーライスのような物を食べる機会がなかなかなく、日本に帰ったらまず蕎麦とカレーライスと牛丼を食べるのだ…と誓っていた僕にとって、カレーはとても魅力的だった。僕はツマに、せっかく海外に来たのにカレーライスというのは少しつまらないと思うかもしれないが、ここは英国であり英国風カレーというものがあるとおりカレーライスもまた英国の名物の一つと言えるのだ、名物であればカレーだろうがオニギリだろうがそこで食ったほうが旨いのだ、と説得を試みると、ツマは一瞬だけうるさそうに顔をしかめた後に賛同したので、その店でカレーを買い、スクーターの後ろ半分に座ってカムデン・タウンを流れる川を眺めながら食べることにした。
 店といってもそこはテイクアウトのみの、屋台のような作りだった。通りに面したカウンターには大きなカレーの鍋がいくつも並んでいて、その中から2種類選んでライスにかけられるのだそうだ。ラージサイズにすると缶ジュースをオマケしてくれるというので、ではラージサイズを2人で分けようということになった。見た目だけではどれが何のカレーなのかわからないが、メニュー表が貼ってある。その中からラムと海老のカレーを選ぶと、店の主人は少しも申し訳なさそうな表情をすることもなく、まるで地球は丸いのだと当然のことを言うように、今日は海老のカレーはないのだと言った。海老好きのツマにそのことを知らせると、ツマは少し悲しそうな顔をして、では牛肉にしよう、と言ったのだった。
 そのカレーはなかなか、というか非常に本格的で、何度目かわからないがやっぱりイギリスは旨いのだ。これだけのカレーを、主人が1人で毎日いくつも作るのは大変ではないだろうかと思われる。僕はそのあまりのおいしさに店のほうを振り向くと、主人は「俺は自分のカレーには自信があって仲間内でも評判だ。しかし日本人は特にカレーが好きだと聞いたことがある。奴らは週に1度はカレーを食べるそうじゃないか。そんな日本人に俺のカレーは通用するのだろうか…」と不安げにこちらを見ており、目が合ったので僕がためらいもなく親指を立てると、主人は満面の笑みを浮かべたのだった。
 カムデン・タウンを後にすると、最後にバッキンガム宮殿を訪れた。とはいっても中には入れるはずもなく、高い柵の外から建物の外観を眺めるだけだった。特に豪華ということもなく、なんだろう少し薄汚れているねえ、宮殿というより古い学校のようだねえ……などと他人の家に対して失礼な言いようだけれど、そんな印象を持ったのだった。
 さて次はどこへ行こうか、といつまでも考えていたいのだけれど、いよいよ空港に向かわなければならない時刻になっていた。残念だがしかたがない。

 パディントン駅に戻り、ホテルに預けておいた荷物をピックアップ。ヒースロー・エクスプレスの切符はすでに買ってあり、ホテルと駅はくっついているので、焦ることはなかった。ヒースロー・エクスプレスは、途中止まることなく、たったの15分で空港に着いた。もうちょっとロンドンの余韻を味わっていたいのだけれど、あっけないのだ。
 空港で、最後になにか記念のお土産を買っていこうかとハロッズに入ると、クマのぬいぐるみがあった。ハロッズのクマといえばわりと有名だそうで、なかなか作りも良い。僕はそのクマに一目惚れし、いくつかある中でももっとも顔立ちの整ったクマを日本に連れて帰ることにした。僕は少し浮かれてしまい、レジで腹話術のようにクマを動かし「ハロー、ボクこれから日本へ行くんだ」と言ってみたけれど、レジのおばちゃんは少し戸惑ってからニッコリと愛想笑いを浮かべて、「あらそう…」と言っただけなのだった。とんでもないことをしてしまった。
 後はもう搭乗を待つだけ、ということになり、僕らは座って昼間買ったカップケーキを食べることにした。カップケーキは長い時間持ち歩いたのでひっくり返ってくちゃくちゃになってしまっていたけれど、それほど甘すぎるわけでもなく、おいしく食べることができた。最後の最後まで、イギリスは旨いのだった。
 いよいよチェックインカウンターに並んでいると、ANAの現地職員が「今なら6万円でファーストクラスに変更できるがどうか」と言ってきた。通常であれば「おお何という幸運、神様も我々の新婚旅行を祝ってくれているぞ…」と飛びつくところだけれど、すでに帰国の心構えができ現実世界に意識を戻していた僕は、2人合計で12万円はちょっとねえ…と断ってしまった。これは今でも悔やまれる、最大の失敗だったと思っている。
 チェックインを済ませ、順路に従って歩いて行くと、搭乗ゲートに辿り着いしてまった。なんということだ、どこかで出国審査をすっとばしてしまったらしいぞ…と少々焦り、不安になったが、空港が大事な出国審査をスルーできるような構造になっているとも思えない。ツマがANA職員に聞いてみたところ、イギリスでは出国審査は行わないそうだ。入国の際はあれほど厳しかったのにどういうことなのだ。入国の際は僕のような善良な人間ですら怪しんでなかなか通してくれなかったのに、出国の際はどのような極悪人でも簡単に通してしまうのか。どういうことなのだ。
 少々の疑問を持ちつつも、僕らは滞りなく18時30分発のNH202便に乗り込み、日本へ向かったのだった。

 成田空港から自宅の最寄りの駅に着くと、僕はツマを駅に置いて家に向かった。この1週間でツマにはほとほと愛想を尽かし、家に連れて帰る気になどまったくならなかった。というわけではもちろんなくて、いったん家に帰って車で駅に戻り、スーツケースを積んで帰ることにしていたのだった。
 歩き慣れた家までの道を、2月の冷たい空気に首を縮めて早足で歩く。途中、焼き肉屋とうどん屋があり、こういった店で気軽に食事ができるのはありがたいなあ、と思う。
 家に着き、中の様子を確認する。そこはしんと静まりかえっていて、出発前と特に変わったところもなく、動く物といえば時計の針だけだった。誰もいない1週間の間、この時計はくるくるこちこちと回り続けていたのだなあと、なんだかちょっとした遺跡に迷い込んだような気分になった。
 僕は車のキーを取り、駅に向かうことにした。すっかり忘れていたが、ツマが待っているのだ。
 エンジンをかけ、少し暖める。最近の車は暖機運転がいらないというけれど、僕の車は最近の車ではないので暖機運転が必要なのだ。
 住宅街はすっかり紺色に染められ、静かに夜を迎えつつあった。そういえばあのハチミツ色の村も夕方には紺色に染まるのだろうか、などという当たり前のことに疑問を持ったことがおかしくて、クスリと笑う。いつかまたあのハチミツ色の村や大聖堂に見守られた、いくつもの街を訪れることがあるだろうか。そのときはまた、旨いものをたくさん食べたいと思う。
 最後にもう一度言おう。
 イギリスは、旨いのだ。